弁護士中山の「私の一冊」

何かを忘れるということ (2010.6.28)

荻原 浩 「明日の記憶」光文社文庫

 

  私が受験勉強に明け暮れていた(?)大学3年の夏のことでした。左足と腰に強度のしびれを訴えて検査の結果,約1ヶ月半の入院予定で椎間板ヘルニアという腰の手術を受けることになりました。当然,全身麻酔を施しての手術となります。ところが,術中,私の心肺は麻酔ショックにより停止したのです。執刀医は,直ちに心マッサージ,電気ショック(今でいうAED)にて蘇生術を施し,これが奏功し,私の心肺は再び正常に動き始めました。心臓が停止していた時間は長くても10分以内だったとのこと。医学的に心停止は血流の停止を伴い,脳細胞を壊死させてしまうことになります。ですから,心停止時間の長さにより患者の蘇生後の状態に影響を及ぼすわけです。私が手術室から出るまでに8時間を要した挙げ句,執刀医から医学生だった兄になされた説明は,「意識の回復を待つしかないが,心停止の後遺症,悪くすればいわゆる植物状態もありうる」というものでした。当の私は,幸か不幸か深夜普通に(?)目覚めました。そして,看護婦さんから「私誰だかわかりますか」の問に対して,「ごっつうぶさいくな看護婦さん」と正直な受け答えも出来ました。しかし,私にはこのやりとりを含め,それから3日間の記憶がありません。正しくは3日間の出来事がすべて夢で見たことのように,曖昧な記憶ほどにも呼び戻すことができないのです。医学的には,記銘障害といって,古い記憶は損なわれておらず,新しい情報を記憶することができなくなっていたのです。例えば,私は,その日見舞ってくれた先輩に対し,「わざわざ来てくれてありがとうございます」と挨拶出来ました。しかし,それから数分した後,再び私は先輩に対し,「先輩来てくれたんですね。ありがとうございます」という次第です。件の先輩は,涙をこらえ辞して,大学の勉強仲間に対して,「エイジ(私の名前)はもう終わったばい」とこぼしていたそうです。幸いにも3日後の朝,私はそれまでの2日間とはなんだか違う覚醒をしました。記銘障害も徐々に回復しました。リハビリに,1日何度も日記を書きました。また,先の看護婦さんとも,あの「正直発言」はなかったことにしましょうという和解もしました。たぶんその後快復した(?)私は,3年後に,偶々司法試験にも合格して現在に至っています。時は流れ,20数年。ここ数年来,ちょっとした物忘れを自覚することが多くなりました。気がつけば,本作品の主人公と同じ歳になっていたのでした。

いわゆる認知症という病気のなかに,20世紀初め,ドイツの精神科医アルツハイマーが報告した症例であるアルツハイマー型というものがあります。初期症状から記銘障害とうつ状態を伴い,うつ病との区別が難しいようです。今の医学でも根治療法はなく,進行を遅らせることはできても治癒は不能です。多くは老年性で誰でも65歳以上で発病する可能性があります。74,75歳が好発年齢とされています。ちなみに,日本の65歳以上の人口のうち,約13人に1人が罹患していることが報告されています。これに対して,老齢に至っていないにも拘わらず(20代の例もあります)発病するものを,若年性アルツハイマーといいます。若年性は遺伝疾患とされ,老年性と違って進行が著しく早く,脳の神経細胞が急激に減ってしまい,脳が萎縮して知能低下や人格の崩壊が起こり,やがて死に至るというのです。

本作品は,若年性アルツハイマーと診断された50歳の広告代理店営業部長佐伯の発病からその病状が進行する過程を描いた,わずか1年足らずの物語です。

佐伯は,営業部長としての激務の中で,まず人の名前がなかなか出てこないようになります。小さな物忘れを経て,次は大切な取引先との打合せをすっぽかしてしまいます。自分で備忘録をつけ対策しますが,相手を問わず容赦なく物忘れは進みます。医学書を読み漁り,うつ病との自己診断をして悩む中,精神科を受診。詳細な検査の結果,若年性アルツハイマーの初期症状と診断されます。たくさんの薬を処方され,家庭では妻の献身的な食事対策,玄米,緑黄色野菜,DHAが含まれる魚料理は予防に効くとのことで,毎日食卓に並びます。会社ではシステム手帳に備忘用に多くのメモ,付箋を忍ばせます。が,ひとり行き慣れたはずの渋谷の取引先を訪問する際に,迷子になってしまいます。部長会議の欠席や治療中であることを会社に知られ,とうとう佐伯は閑職に。せめてもの一人娘の結婚式を現職で終え,会社を退職・・・と,暗い展開に尽き,特にラストシーンは思わず「そこまでなりますか」と来てしまいます。

本書をとおして,若年性老年性を問わず,アルツハイマーという病気のこと,周囲の方を含め,すぐそこに戦っている人たちがいるということを認識することが,いかに大切さかを教えられました。ともすれば,縁遠いことと考えて,偏見すら持ちかねない私に反省を促すことにもなりました。

「明日の記憶」というタイトルは,作者の意図への誤解を恐れずにいえば,過去のことは忘れても,まだ来ない明日のことを忘れることはないので,今日はダメでも明日は希望を持ってがんばろうということではないかと,自分なりに思いました。本当に感動の一冊でした。特に周囲にこの病気と戦っておられる方がいる方には,是非一読をオススメします。

なお,作者は56年埼玉生まれ,成城大卒。広告会社,コピーライターを経て,97年「オロロ畑でつかまえて」で小説すばる新人賞を受賞して作家デビュー。本作品で2回目の山本周五郎賞を受賞。また,本作品は渡辺謙の主演で06年に映画化。同映画化は,原作を読んで惚れ込んだ渡辺自身が,作者に手紙を送って懇願して実現したものとのことです(了)。

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